昭和42年11月27日 朝の御理解 (前半 録音不良)
「信心してみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ、信心してみかげなきはこれぞ不思議なることぞ」と。みかげというのは、霊験とか、霊験あらたかなとか申し、ますが、その、霊験が今度はなんとはなしに、この頃はなんとはなしに軽んじられるような、雰囲気が、教団いっぱいにあるような感じがいたしますよね。
何かこう、特別なおかげを頂く、(?)軽くみるというか、いわゆるその、霊徳といったようなものを軽く見るといったような風潮がある。
(?)成る程、本当に偉大なおかげというような、偉大なおかげ、(?)
お互いが日々こうやっておかげを受けておる、生きておるという風に、これを、いうなら不思議なおかげを受けておるといったような大きな意味合いでのおかげをおかげと、分からせようとする、説明をすれば、それが分かるのですね。
( ? )私共( ? )というような事はやはりおかげでありおかげ。それを一言でいうなら、霊徳。ね。死人が蘇るような、ちんばが立つような、めくらが眼が空くような、といったような特別の霊徳ですね、そういう霊験でも信心しておかげのあるのは当たり前と仰る。そういうおかげがないならないほうが不思議な事だと。
昨日、宮の陣教会御大祭。もうなんかその、段々そのお祭りが立派なお祭りになっておるような気がいたします。
本当にあの、お参りもたくさんございましたが、お供え物と一番見事な大祭。ね。教会長は82になるお婆さん。 ・・?取?子取り嫁ですが、 ? )ありかたなんか椛目に良く似ているなと話した事があった。なかなか立派なお祭り。その御大祭中にお祭りが済みましてから総代さん、今村という方がおられます。此の方は、大した信心はないんでづけれども、あるちょっとしたきっかけから、神様からお知らせを頂くようになった。しかも、金光様がいろいろ(? )現在ではお話の模様から見るとやはり金光教的な勉強しておられたんでしょう、金光教的信心が身に付いてこられたような感じ、十何年ぶりにお合いしたのですけれどもね。
( ? )今村という人がそれこそ感極ってというか、もう一口言わなければおられなかったのですね。(?)こういう広大な不思議なおかげを頂いたから、皆さんに聞いて頂きたい、と言うてその話されるんです。・・・・・・・・・・・・・?丁度そのビンかんのお供えがあった。先生の手から手に渡ろうとする時、2つ缶詰が落ちた。ところがその、あれっと思った瞬間に落ちたけれども下に落ちていないという。もうビックリしてしまいましたけれどもね、( ?)袖袖と言われたから、見るとお装束にそれが缶詰が( ?)入っておったと。( ? )私はそのお道の信心はそういう霊験をですね、本当に霊験として、神様のおかげというのは素晴らしいなあとそれをあの、信じられるのでないとおかげは受けられないと思うですね。そげなおかげがあるじゃろうかと。と言う人にはそげな事があるじゃろうか。これは、福岡の秋永先生がまだ信心初心のころです。( ? )丁度福岡の教会の記念祭かなんか、何かがこう、記念祭、なんでしたか、終戦直後のことですからお野菜が手に入らない。ですから大城から、ゴボウを一把かったというような、長いゴボウですね。その、福岡の教会で買うておられた。( ? )あんたが福岡に帰るなら、ここへ持って来てくれと秋永先生が頼まれた。( ?)というてその一杷のゴごボウを(?)教会からバスの停留所まで、(?)大橋についたら、電車でまた福岡の教会へ持って行ってやるつもりで、まあ、持っていったんですね。( ? )教会から約10分くらいかかりますね、歩いて。そこをその、私が(?)ですけれどもね、( ? )このくらいの大きな( ? )そん時まで気が付かなかった。ところがその大橋について、今度は自分の家まで持っていくのは善導寺から、バスの停留所に近い、ところがそれが、急に重たくなって何度も何度もその、右か左か変えながらやっとその、内まで持ってかえったのですね。そして気が付いた。善導寺からバスの停留所まで持っていく時には、あんなに軽かったごぼうがどうしてこんなに急に重くなったじゃろうかと思うたらふっと気が付いた。福岡の先生あたりは本当にあの、よその信者をそんな事に使うてから、今から又、ね、あちらまで、荒木まで持っていってやらないかん。
面どくさい御用を承ったものである。そんな気持ちだったのですね。ところがその善導寺のバスの停留所まではです、はあー御用と思うてから有り難いとおもうてから、持ったらしいです。本当に軽かった。当時、入信したばかりのイキイキした信心をしておる時ですから、非常に有難かったのですね。あの、御用として喜んで受ける時にはもう重たいものも重くないようなおかげを受けるようなものだと。
もう、心の中に不浄を掛けたら、もう途端に、あのゴボウが重たくなったという(?)成る程霊験というものはあるのだなと、霊験とはこういうものだなとおもうてその、喜びをその教会に持っていって、そのお取次を願う時に、その、その方はすぐ亡くなられましたけれども、お爺さんでした。お道の教師になられた方が、(?)でそのことを話しましたらからからと御結界で笑われるそうです。粗げな事があるもんかと。もうせっかくこげな素晴らしい、本当に神様の働きちゃあるじゃろうかと実感しておるものをですね、御結界の先生がそげな事があるじゃろうかと、笑われた時にがっかりしたという話をした事がございますがね。勿論その先生、もう、その事を言うたらか死にましたわけじゃございませんけれども、お年ですから、けれども、お道の教師になられたけれども、教会をもたれる事も出来ず、まあ、その人が助かったと言う事もなしに、果てられましたけれどもね。
金光様の先生までしておるものがですね、そういう例えば普通でいう不思議なおかげというおかげをですね、そげな事があるものか、それは偶然たいというごたることでは霊験は受けられないですね。神様の生きた働きは受けられない。もうそういう意味の事をいうなら、椛目の始まりのころはもう本当に不思議で不思議でたまらない、そげな事が本当にあるじゃろうかと、実際に目の当たりに見るからですね、目の当たりにみるから合点がいくけれども、話だけではそげなことがあるじゃろうかと言ったような事が非常にそれこそ著しかった。その生きた神様の働きをです、信心のおかげを氏子に分からせて下さろうという特別の働きがあった事でございましょう。
信心してみかげのあるは不思議とはいうまじきものぞ。みかげのない時はこれが不思議なる事ぞ。と。これはまあ、余談ですけれどもね、本当にあの宮の陣の先生が82歳にもなられる。若いまだそれこそ、独身をやはり、いつ結婚なさったんでしょうね。(?)若い20いくつくらいで、あの、(?)とおしておられるのですが、とにかくまあ、大変なことであっただろう。と。それは( ? )耐えられないような中をやっぱり、( ? )宮の陣の教会にもう非常に(?)多い教会ですね、( ? )というようにその、本当に、宮の陣の先生の御信心、お米なんかのお供えなんかでも十五俵から(?)でございました。私はずっと回りました教会では一番広いお広前の教会ですからね、そこには一杯でした。そしたら神様からお知らせを頂きますのが、小さい紫の(?)紫色のキャベツ。洋食なんかに使ってあるあれを頂くのですよ御心眼に。そして、頂く、御理解に頂く事がね、成る程、非常にその、根性がしっかりした方ですから、一部では非常に親しまれますが、一部では非常に嫌われなさるタイプの先生。ね。もう、根性者というてから先生方からでも言われるようなところがあるのです。けれども神様に向けての一途なものというのはやはり、(?)ね。それから、自分の身のキャベツではないですけれども、一枚一枚はいで行くような修行をなさっておられるですね。紫というのは安心。そういうなから生まれた信心なんです。宮の陣教会。ですからどういう事からでもよい。そこから神様を信じ切れる心が生まれる。そこから安心、必ずおかげになる。そういう信念を持っておられる。ね。例えば信者が(?)難渋しておる。教会にいってから、先生がお願いしますというたら、入ったものが出らんことがあるもんのというてその怒られたと。
というようにですね、そういうようながむしゃらなまでの信心を持っておられる。そういう信心が段々その、ああいうなら、人が助かる事にもなり、この教会が出来ていったと、いう事になるのですね。いわゆる霊験を霊験として信じきっておられた。
また現在でもなおさら信じきっておられるのですね。そういうところに、宮の陣の御ヒレイがあるわけでございますが、お互いが信心をさせて頂きよりますが、本当に話を聞いて分からせてもらえば、こうやってお参りをさせて頂いておる事も不思議な有り難いおかげなんだ。実際こうやって目が見えておるという事でも、手が動いておるということでも、ちょっと水道をひねれば水が出る事でも不思議なおかげなんですけれども、今日は私が申しましたのは特別の、誰が見てもそんなことがあるもんかと、枯れ木に花が咲くような、といったような時にそげな事があるもんかといったような、霊験を軽んじるようなことでは、神様の本当に生きた働きに触れる事は出来ない。それに触れる事が出来ずにです、話で聞いてなるほどと合点のいくような、おかげをおかげと分かったようなものではそれは実感的な者ではないです。
こういう素晴らしい働きをして下さる神様であって始めて、本当に私ともの五体を作って下さった神様であり、一粒のお米をお作り下さる神様であり、ね、あの、お水を作って下さる神様であり、この五体のいわば、自由自在な五体に対するところの、体に対する事でも例えば病気をすれば、病気を治して下さるような特別の働きの力を持っておられる神様だという事を信じれるものだ。そこが信じれて初めて私は大きな意味合いにおいてのおかげも、おかげと実感出来れるのである。ね。それが小さいおかげという意味ではありませんけれども、本当にめくらが医者ではどうにも出来なかっためくらさんが目が信心によって開いたといったような事でもです、それを偶然視するような事もない、神様の働きちゃたいした事だなと確信出切れる。その確信がです私共にいつも、絶えず、宮の陣の先生じゃないですけれども、紫のおかげ、いわゆる安心のおかげを与えて下さる。そういう神様の御守護を頂いておる。そういう神様のお守りを受けておると思うから安心がある。その安心が次のおかげを頂く受けものになっておるのです。
どうぞ信心してみかげのある、みかげとは霊験とかいてある。成る程、不思議とはいうまじきものぞと。祈りてみかげのない時はこれぞ不思議なるものぞと仰っておられます。